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東京高等裁判所 昭和60年(ネ)537号 判決

控訴人 東京高等検察庁検事長 前田宏

控訴人補助参加人 丙川夏郎

〈ほか一名〉

控訴人補助参加人両名訴訟代理人弁護士 杉田雅彦

弁護士 青島伸雄

被控訴人 乙山三郎

右訴訟代理人弁護士 城田冨雄

主文

原判決を取消す。

被控訴人の請求を棄却する。

訴訟費用は、補助参加によって生じた分をふくめ、第一、二審とも全部被控訴人の負担とする。

事実

一  控訴人補助参加人ら代理人は主文同旨の判決を求め、被控訴人代理人は控訴棄却の判決を求めた。

二  当事者双方の主張は、左記追加主張のほか、原判決事実摘示第二のとおりであるから、これを引用する。

(追加主張)

(一)  (被控訴人の主張)

亡甲野夏子と被控訴人の血液型は、いずれも、ABO式でA型である。

右事実以外の血液鑑定又は人類学的鑑定による親子関係の立証は、もはや不可能の状況にあり、鑑定の申出はしない。

(二)  (控訴人補助参加人らの主張)

亡甲野花子の血液型は、ABO式でA型である。控訴人側も、被控訴人代理人の右主張と同様の理由から鑑定の申出はしない。

三  《証拠関係省略》

理由

一  当裁判所は、当審において提出された資料をふくむ本件全資料を検討した結果、被控訴人の本件認知請求は理由がなく棄却するほかなきものと判断する。

その理由は次のとおりである。

二  (戸籍上の身分関係)

《証拠省略》によれば、戸籍上、次の身分関係の記載、不記載が認められる。

(1)  亡甲野夏子(以下「夏子」という。)(本籍静岡県静岡市《番地省略》)は、父甲野太郎、母甲野花子の二女として、大正八年一一月二〇日静岡県志太郡《番地省略》にて出生、父甲野太郎届出同月二一日受附入籍され、昭和五八年三月七日午後八時一七分静岡市で死亡、同月八日親族丙川夏郎届出除籍されていること、戸籍上、夏子には婚姻の記載も、子の記載もないこと。

(2)  被控訴人丙川三郎(肩書本籍)は、父甲野太郎、母甲野花子の三男として、昭和一一年四月二日静岡県志太郡《番地省略》にて出生、父甲野太郎届出同月一一日受附入籍され、乙山松夫、同人妻竹子(明治四二年一二月二七日出生)の養子となる縁組があって、養父母及び縁組承諾者甲野太郎同人妻花子の右縁組届出が昭和十一年六月二九日受附されて右養父母の戸籍に入籍され、その後同三六年二月二二日、丁原梅子との婚姻届出受附がされており、妻梅子との間に長女春枝(昭和三六年七月三一日出生)、長男一夫(同三九年八月一二日出生)をもうけて出生届出入籍がされていること。なお、養父乙山松夫は昭和四〇年一二月一四日死亡届出除籍されていること。

(3)  戸籍上、夏子及び被控訴人の父母と記載のある亡甲野太郎、亡甲野花子については、甲野太郎は明治一八年一〇月二五日出生、昭和二四年一〇月四日午後五時三〇分死亡、甲野花子(旧姓丙川花子)は、明治二二年六月二日出生、昭和三〇年九月九日午前五時二七分死亡、右両名は大正六年一〇月九日婚姻届出、甲野太郎、甲野花子夫妻には、長女春子(大正六年一〇月一日出生、昭和二七年一一月二三日死亡)、二女夏子、長男一郎(昭和二年八月一五日出生。なお同人の死亡は後記認定のとおり。)二男二郎(同六年三月五日出生)、三男被控訴人、の子が戸籍に記載されていること。

(4)  甲野花子は、旧姓丙川花子、明治四〇年七月一日亡丙川菊郎と婚姻届出、丙川菊郎(大正四年死亡)、花子夫妻の間には、長男春郎(明治四一年六月二七日出生)、長女桜子(明治四四年八月二日出生)、二男夏郎(大正三年五月一九日出生)の子が戸籍に記載されていること。

三  (関係者の死亡など)

《証拠省略》によれば、甲野太郎、甲野花子、甲野春子、甲野夏子、甲野一郎、甲野二郎、丙川菊郎、丙川春郎は、いずれも死亡したことが認められる。(甲野一郎は昭和五六年一二月一一日死亡。)また、《証拠省略》によれば、被控訴人は、現在五一歳であるが、夏子生存中は、戸籍はこのままで仕方がないと思っていて、夏子を母親とするための戸籍の訂正を考えなかったが、夏子死亡(昭和五八年三月七日)後、夏子の遺産、墓、法事のことにつき、丙川夏郎、被控訴人外親族縁者の間に意見利害の対立が生じたことから、はじめて、同年四月二日本件認知の訴を提起したもので、一方、丙川夏郎、丙川桜子は、丙川春郎、被控訴人外三名を相手方として遺産分割調停の申立を静岡家庭裁判所になしたことが認められる。

四  (夏子は被控訴人甲野三郎を出産したか)

被控訴人は、「夏子が昭和一一年四月二日被控訴人を分娩した」と主張する。(引用原判決事実摘示中の請求原因1の事実。)そこで、本件全資料を検討し審按するに次のとおりである。

(1)  本件資料のうちには、医学・人類学等の自然科学的究明によって、夏子と被控訴人、甲野花子と被控訴人との間の母子関係の有無を確定し得る資料はもはや存在しない。このことは、当事者双方とも、前記追加主張のとおり述べている。

(2)  本件資料のうちには、夏子が被控訴人を分娩した事実を直接証明する人証、書証、証拠物は存しない。この事実に関して、甲野花子、夏子自身の作成したり残した書証・物証も存しない。

また、被控訴人は、自分は戸籍上の父母の子ではないと主張するが、それでは父親は誰であるのか、この点から事実を解明しようとしても、その資料は存しない。

(3)  「夏子が被控訴人を分娩した」旨の被控訴人主張事実に符合照応する証拠としては、《証拠省略》がある。

当審証人乙山竹子(被控訴人の養母で、証言時七五歳)は「赤ん坊の親は、娘の甲野夏子の子であるとおばあさん(甲野花子)が言った」、「甲野夏子とは被控訴人が一八か一九のときに会った」、「被控訴人が戸籍では甲野夏子の父母の子になっていることは、被控訴人をもらうときに聞いて知っている」、「被控訴人の母は女中で一七歳と聞いたが父親は年をとった人だということしか聞いていない」旨供述し、被控訴人は右本人尋問の結果中において「夏子が母親であることは自分が婚姻届を出す機会に知って、昭和三六年頃尋ねていって、夏子に対面し、その夜甲野一郎を入れて夏子と三人で話した」旨、その話の内容、その後母子として交際してきた次第について供述する。

前顕証人丙川春郎は「花子は、長女桜子、二男夏郎をつれて甲野太郎のところに行き再婚し、自分は父菊郎の弟の家で育てられた。甲野太郎と花子との二男二郎は実は丙川桜子の生んだ子供であり、私の養子として育てた、被控訴人は、当時一七歳ぐらいの夏子の生んだ子であり、夏子は当時静岡で芸者見習いをしていたが、被控訴人の父親が誰であるかはわからない」旨供述し、前顕証人丙川秋枝は「自分は丙川春郎の長女であるが、夏子とは二〇年間位同居した、昭和三八年か三九年頃『自分には息子が居るから』と夏子にいわれて、連れられて池袋に行き被控訴人とあった。夏子と被控訴人とは母と子の交際をしていた」旨供述し、

前顕証人甲野春代は「昭和二九年一〇月一一日甲野一郎と結婚し、甲野花子、夏子、一郎と私の四人で同居し、花子は同三〇年九月九日自宅で死亡し、同三一年の暮頃、夏子は近くのアパートに転居した。当時夏子は芸者をしていた。同三四年一一月夏子は鷹匠町に家を買って移った。同三六年暮頃夏子から連絡があり私、一郎、子供達が夏子の家に行き、そこで被控訴人と利は初対面した。夏子から『私の子供です』と聞いた。私はそれ以前、昭和三一年頃亡一郎から『夏子姉ちゃんには子供があるんだよ。その子供は三郎という男の子で焼津市石津の方に養子にやったんだよ、その子供はもう一八歳位になるんじゃないか』と聞いた。花子からは『私の子供は春子、夏子、一郎の三人だから三人仲よくするように』と聞いたことがあるが、二郎や被控訴人のことについては聞いていない」旨供述し、

前顕証人戊田ハル(七六歳)は「私は芸者置屋松の家を経営していて戦後芸者の夏子を知った。夏子は私の家で五、六年働いた、私は被控訴人を知っているが、夏子から、夏子が一六歳ぐらいのときに生んだと聞いている」旨供述する。

右各証拠は、いずれも被控訴人の主張を支持する証拠である(以下被控訴人主張支持証拠と総称する。)が、故人からの伝聞による供述や記載が多い。

(4)  被控訴人の前記主張事実に対する反証として、《証拠省略》がある。

前顕乙第一号証中には「昭和五八年十月三〇日現在私は七十九歳である、今から五〇年位前(昭和一〇年頃)の甲野家の事について述べる、当時甲野家は現在の私の住居の真向いでおしるこ屋を営んでおり、甲野太郎、花子夫婦と子供春子、夏子、夏郎、一郎がいた。太郎は当時漁師で、花子がおしるこ屋を営み、春子、夏子が店を手伝っていた。夏子は二〇歳頃家を出ましたが、それまでは店を手伝っていました。当時私は三十歳位で、丁田館という柔道道場を営み青少年の柔道を教て居て、甲野家のことについてはよく憶えている。その頃花子が妊娠して腹が大きくなったことを憶えているが、その子供が今生きていれば五〇歳近くになっているはずです。夏子の方は一六、七歳位の子供であり腹が大きくなったとか、子供を生んだと言う話は一切ありませんでした。その後夏子が家を出た二〇歳位までの間子供を生んだことがあるような噂も耳にしたことはありません。甲野家の人達は大東亜戦争がはげしくなる頃掛川の方へ引っ越して行きました」旨の記載があり、

前顕証人甲野春郎は「昭和一一年頃母花子のおなかが大きくなったことは本当である。夏子が子供を産んだというようなことはない。大正四年一月に父が亡くなって私は連れ子として母の再婚先の甲野家に来た。昭和一一年頃夏子は一五、六歳で尋常小学校を卒業していた。夏子は家で母を手伝って一文商いをやっていたが、芸者家の下働きをしていたことはない。太郎が被控訴人を夏子の子供と認めていたということは聞いたこともない。母が子供を産んで、年をとったときの子供で家の事情もあって、子供を欲しいという近所の人があったのであげたと聞いた。自分は被控訴人を夏子の子供と認めるわけにゆかない。それは夏子が昭和五七年一〇月末に入院するときに、すぐ来てくれと呼ぶので私は行きました。そのとき、夏子は『私には跡継ぎも子供もないので、相談にのって貰うのは兄さんしかないのだから、入院するということになって、長くなると困るので力になってくれ』と言いました。夏子は、自分で、子供がないと言っていました。被控訴人が夏子と会って親子の名のりをあげたということは聞いていない。この裁判になってから聞いた。私は甲野家に、二七歳で結婚するまでおったから、甲野家の事情は私の他に知っている人はないというぐらい知っています。そのとき両親からも兄弟からも、夏子本人からも、一度も夏子が子供を産んだ話を聞いたことはない。

被控訴人については、昭和五八年四月一一日夜九時三〇分頃私のところへ電話がかかって来て初て名前も知った」旨供述し、

前顕証人丙川桜子は「被控訴人は夏子の四九日のときにはじめて見た。被控訴人は太郎と花子の子である。母花子から、年をとって子供があると困るよと言われたとき、私が、夫婦でいれば子供ができてもしようがないし、まだ五〇歳になっていないのだからというと、母は、うちも大変だし困ちゃうよと私に言った。昭和一一年頃、夏子が一七歳の頃、夏子は甲野太郎、花子の家庭にいた。夏子が芸者見習いをしていたのはもっと後のことではないかと思う。甲野太郎、花子の二男とされている二郎は、私が産んだ子である、私は働いていて子供ができ、その人とも結婚できない状況だったので二郎を産むとすぐ母の籍に入れてもらって、兄春郎の養子にしてもらったのです。このことはこの法廷ではじめて言ったことである。」旨供述し、

前顕証人甲田冬夫(七八歳)は「甲野花子は私の叔母で、私の父の妹が花子です。私は昭和一一年当時鉄工所で職工として働いていた。昭和一一年当時太郎夫婦は焼津市北新地に住み私の住む大正町から歩いて五、六分の距離でしたから、太郎夫婦の自宅へ月に五、六回遊びに行っていた。その当時花子は、夏は氷、冬はおしるこを売っていた。太郎は漁師で漁船に乗っており、夏子とその姉春子が花子のおしるこ屋を手伝っていた。その当時太郎夫婦の自宅には、太郎、花子、春子、夏子、一郎が住んでおり、丙川夏郎は召集で出征中であったが、たまに帰ってきていた。昭和一一年当時夏子が妊娠したり出産したことは聞いていない。夏子のお腹が大きくなったのを見たことがありません。花子のお腹は大きくなっていました。私が太郎夫婦の自宅に遊びに行った際、現実に見ています。その当時四六歳で子供を産むことは、私の近所でも例があったので珍らしいことではありませんでした。私の母から、花子が『父さんの漁も少ないし、家庭も貧乏だし、恥しい。』と言っていたと聞いています。花子が出産した場所は『太郎夫婦の自宅だ。』と私の母から聞いています。私はその生れた子供を、生れてから四、五日経って見に行きました。私の長女が生れたとき、お祝をもらっていましたので少しばかりの出産祝をした。花子が子供を産んだときの産婆さんは亡戊田マツである。春子や私の子供も戊田マツに取り上げてもらっている。その生れた子供をくれてやったことを聞いたが、どこへくれてやったのかは知りません。私が生れた子供を見に行ってから二週間位たってから、どこかへくれてやったことを聞きました。そのことは私の母から聞いたのです。私は夏子から『自分には子供がいる』と聞いたことはない。私が被控訴人をはじめて見たのは、教念寺で夏子の四九日の法事のときです。丙川秋枝が、被控訴人が夏子の子供であることを言ったので、はじめて聞いたことでしたので私は驚きました。花子のお腹が大きくなったと覚えているのは昭和一〇年の暮頃ではないかと思います。私が花子の出産時期を覚えているのは、私の長女の後に産んだからです。私の長女は昭和一〇年二月に生まれている。夏子が芸者か女中か判りませんが出たという話は聞いたことがあるが、それは昭和一四年頃と思います。私が昭和一三年から同一六年まで新屋に住んでいた頃だと思うからです、」旨供述し、

前顕証人丙田海子(四九歳)は「私は呉服販売業で、昭和五一年頃、客の紹介で甲野夏子を知り夏子が死亡するまで、夏子と親しく交際した。夏子と同居していた丙川秋枝ともつき合った。夏子が丙川秋枝と別居した後、夏子は私に『子供がいないので一人になってしまう。何かあったら困まるのであなた方夫婦の養母になってあなたの家族と一緒に住みたい』と言っていました。夏子が入院後、毎日のように見舞に行ったが、夏子から『自分に子供がいる。』という話は聞いたことがない。私の主人も見舞に行ったが、夏子は主人に『たびたび見舞にきてもらって申し訳ない。子供がいたらこんな厄介にならなくてすむのに』と言ったと主人から聞いています。私は丙川秋枝から『夏子に子供がいる』と聞いたことがない。夏子とつき合い始めてから、夏子から『自分に息子がいる』という話を聞いたことがありません。夏子が死亡するまでは、被控訴人乙山三郎に会ったことも、その名前を聞いたこともない」旨供述し、

当審証人乙田松郎(七一歳住職)は「私は、昭和一五年頃から父の跡をついで浄土宗乙田寺の住職であり、昭和一一年当時は大正大学の二年生で、父が住職をしていたので、七月の盆には寺に帰り檀家回りを手伝っていたが、その檀家のなかに甲野太郎という家がありその家に当時一六歳くらいの甲野夏子という娘がいたことを覚えている。甲野夏子の顔も覚えており、私とは冗談を言い合う仲でした。当時夏子は家業の駄菓子屋を手伝っていたという記憶で、家を出て働いていたとか、芸者になったとかいう噂を聞いた記憶はありません。当時一六歳の若さで夏子が子供を生んだという話を聞いたことはない。乙第一号証の陳述書の丁田竹郎さんは甲野家の真向いに住んでいて内情は最も知っていただろうし、また、当時、市議だった筈で町内でも信望のある立派を人ですから、事実を曲げて書いたということは考えられません。丁田さんは、寺の総代でもあり、私が市の福祉事務所長時代に丁田さんが市議をやった関係で、能力・性格等は良く知っています。なお丁田さんは三年程前に死亡しました。甲野太郎も私の檀家ですから知っていますが、同人から夏子の出産の話をきいたことはありません。私は被控訴人に会ったことは一度もない。」旨供述し、

前顕証人甲野花枝(五二歳開業助産婦)は、「私は丙川桜子の娘で、甲野夏子の姪である。甲野夏子とは、私が生れて五〇日から七歳まで、昭和一九年頃、昭和二四年から同三〇年まで、同居したことがある。私が七歳になるまでの間甲野夏子は勤めに出たことはありません。当時甲野家は、おしるこやまんじゅうを売っており、甲野夏子はその手伝いをしていました。甲野夏子から、夏子に子供があるという話を聞いたことがない。甲野夏子以外の人から聞いたこともない。甲野一郎の妻から右の話を聞いたこともない。甲野花子から、花子が生んだ子を他人にやったという話を、私が小さいときに聞きました。甲野夏子の四九日に丙川秋枝がお寺に男の人を連れて来て、『お母さんの子の三郎ですよ』と言いました。私はそんなことは聞いていなかったので、そんなことはないと争いましたが、年寄からけんかをしないように言われたので、けんかはやめました。私は被控訴人はおばあちゃんの子と思います。被控訴人が、甲野夏子の子であることを確実に立証する何かを持っているということは聞いていません。この件を最もよく知っている人は私の母丙川桜子と丙川夏郎です」旨供述する。

反証として提出されている右各証拠(以下本件反証と総称する。)は、被控訴人主張支持証拠に対し反証とするに足りる資料である。

(5)  そこで、前顕被控訴人主張支持証拠と本件反証を彼此考察検討し、更に被控訴人が出生したとする昭和一一年四月二日から、すでに五〇年を越える年月が過ぎ去っていること、甲野太郎、花子、甲野夏子その他、当時の事情を本当に知っている筈の人々は、大方故人となっていることなどの叙上説示認定の事実関係、弁論の全趣旨に照らして審按するに、被控訴人主張支持証拠は、本件反証によって証明力を減殺せられ、被控訴人の前記主張事実を証明する資料として、たやすく信用することができない。

本件全資料を検討するも、他に「甲野夏子は被控訴人を分娩した」との被控訴人主張事実を認定するに足りる証拠はなく、したがって、被控訴人の右主張事実は、これを認定するに由なきものである。

五  以上の次第で、被控訴人の本件認知請求は、被控訴人の右主張事実を認定することができないから、理由がなく棄却すべきものであり、右判旨と認定を異にして被控訴人の請求を認容した原判決は不当であるからこれを取消し、被控訴人の本件認知請求を棄却することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法九六条、九四条、八九条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 後藤静思 裁判官 橋本和夫 裁判官奥平守男は転補のため署名捺印することができない。裁判長裁判官 後藤静思)

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